長倉線の謎に迫る

「長倉線」は、中川村までの鉄道施設の完成をみながら、
ついに一度も列車が走ることはなかった。

鉄道敷設計画

大正13年(1924)2月。
中川・長倉・野口地方は煙草の名産地であり、かつ 那珂川の砂利は無尽蔵で、石材も豊富であるが、深刻な交通不便のため「空シク埋没セラルルノ状況ニ有」と、この危機的状況を打開すべく、起死回生の策を茂木町民は鉄道の敷設に求めた。
熱烈な「長倉線」建設運動の中で昭和3年(1928)、ついに鐵道省において大子・長倉間(長大線)の建設が決定された。

茂木・東野間鉄道速成ニ関スル請願書
「鐵道会議ノ諮問ニ於イテモ大子・長倉間敷設案通過ニ相成、宿年ノ熱望漸ク茲ニ貫徹ヲ見ルベク期待致シ居候…必要経費ノ掲上ヲ図リ、明年度ヨリ直ニ着手被相成候様」

太平洋戦争勃発 そして計画の中止

昭和4年(1929)世界恐慌と昭和不況による財政難のため、長倉線の着工は延期となるが、8年後の昭和12年(1937)4月、茂木から長倉間約12kmの工事に着手、同15年に中川村(河井地区)までの約6kmが竣工した。

このまま敷設工事は順調に進むと誰もが思っていた。

しかし、昭和16年(1941)12月8日。
太平洋戦争の勃発により工事は中断。
不要不急と判断されたこの路線は、その後、二度と工事が再開されることはなかった。

「幻の長倉線」の痕跡は、その後の都市計画の波に呑まれ一部姿を消したものがあるが、今もその鉄道遺構は数多く残されており、ふるさとの景色の中で異彩を放っている。